みなさんは「忖度(そんたく)」ということばをご存知でしょうか?
何だか最近(2017年)の政治で話題になることが多いですね。
大阪豊中の○友学園問題で、某首相が「忖度の余地ない」と言ってみたり。
【忖度(そんたく)】
他人の心をおしはかること。「相手の真意を忖度する」のように使われます。似たような意味に斟酌(しんしゃく)があります。【斟酌(しんしゃく)】
1 相手の事情や心情をくみとること。また、くみとって手加減すること。「採点に斟酌を加える」「若年であることを斟酌して責任は問わない」
2 あれこれ照らし合わせてみること。
どちらも似たような意味ですね。今回はここの深堀はメインではないので先に進みたいんですが、知りたいあなたは以下のサイトに飛んでください。
声で伝えないコミュニケーション♪
忖度も斟酌も、どちらも非言語のコミュニケーションです。
今回は、Y!ニュース ビジネスに載っていた内容を要旨として書き起こしをしました。
声を出してことばで伝えない
このコミュニケーションが成立するために期待される人間関係は、普通の関係よりも、お互いの密着度が高い場合に起こりやすいといわれています。
少なくとも自分の考えや気持ちを相手に伝えることが、コミュニケーション成立のために必要でしょう。
ボイストレーナーの立場から言わせていただくと、そこに声と言葉、音声があってほしいのです。
しかし、忖度や斟酌のコミュニケーションでは、わざわざ声に出して言葉にしなくても、相手の非言語から読み取って、何かの反応を起こすことが期待されているわけです。うなずきやミラーリング(相手の身振りや動作を合わせたりすること)などはそんな非言語のスキルです。
ひと昔前に流行りましたねえ。 空気読んでってね。
忖度や斟酌のコミュニケーションに依存していた場合、何かの原因で壊れるとそこに強い怒りや恨み、攻撃性のような感情が出てきます。
当事者同士が、お互いに正論をぶつけ合う、責任を押しつけ合い恨み節を言ってくることもありますね。( ̄∇ ̄;)ハッハッハ経験済み
ここで、「うんうん!そうそう!わかるわかる」を引用します。
【引用】
依存していた対象に、もはや期待していたように甘えて依存し続けることができなくなった時に、一番起こりやすい反応は怒りと恨み・攻撃である。自分がそのような感情を自覚できれば事態は収束しやすい。
しかし往々にして、人はそのような感情にのみ込まれると、自分が何らかの正義を代表して、相手の悪を懲らしめて改めさせる役を果たしているような空想に取りつかれてしまう。この場合には当然、事態は容易に解決されなくなる。
IT化と高コンテクスト文化
Facebook、LINEなどコミュニケーションのツールが進歩しているにもかかわらず、いや、いるからこそ「言わなくてもわかるでしょう」といった、いわゆる察しの文化、高コンテクストのコミュニケーションに依存する場面が抜けずにいるようです。
それは、あまりにも当たり前なことだし、人によっては常識と捉えています。
【引用】
「忖度」のコミュニケーションが成立しない場合に、その原因は、往々にして当事者の中の誰かの人格的問題であるかのように体験されやすい。(中略)誰か一人に責任が押し付けられ、スケープゴートにされることが起きやすいだろう。そうでなくとも、他罰に向かえば過剰な恨みや攻撃性、自罰に向かえば強い卑下や自責が生じ、自殺のような事故のリスクを高めてしまう。 さらに言うならば、「忖度」のコミュニケーションは、背景を共有しないメンバーが混じった場合には正確さとスピードを欠くので、変化の早い状況に対応できなくなる。
怖いですね。ここまでくると「うつ」にとらわれてしまうので、忖度に依存し続けることをやめようとまで書かれてあります。
さて、僕のFacebook友であり先輩でもある、以前ミュージカルもやっていたY氏のことばが印象的でした。この記事をFacebookにアップしたときにコメントを返してくれました。
【内容掲載許諾済み】
彼は今、海外勤務で日本にいません。異文化理解という点で感じるところがあったのでしょうか?
一方で、親しいと思ってるからこそ「こうなんじゃないの?」とストレートに言う人がいる。でも言われるほうは、実はすごく抵抗があったりする。で、じーっくり考えて、4日間くらい経ってから、「なるほど、言うとおりだわな」と合点がいったりする。
ナルホド!考えてみると、やはり自分も含めて日本人はコンテクストが高いんですね。
▼情報元のサイト
Y!ニュース ビジネス【この記事の引用】
「忖度」の弊害
人間には「うつ」と「喪失体験」が必要不可欠である理由
忖度依存社会を乗り越えるより